概要
当時4歳の男児が身代金目的で誘拐され殺害された事件で、迷宮入り寸前となった戦後最大の誘拐事件と呼ばれるとともに、日本で初めて報道協定が結ばれた事件となりました。事件は昭和の時代に起きたものですが、関わった警察官の数は多く、平成時代に元警視庁警察官の方から吉展ちゃん誘拐事件の話を聞いた時には懐かしそうに事件との関りを喋ってくれたのを覚えています。
経緯
- 1963年3月31日
- 東京台東区入谷にある工務店の長男の男児(4歳)が16時ごろに友達と一緒に入谷南公園へ遊びに行くと言ったまま帰宅せず
- 男児が帰ってこず探しても見つからないことから、母親は下谷北警察署の入谷町東派出所に迷子として届け出た
- 18時40分に入谷町東派出所が本署に報告し、そこからの連絡で警視庁は隣接各署に迷子の手配を実施し同署管内での捜索が行われたが発見されず
- 警察側は迷子として捜索をしていたが、父親は「まだ4歳だが住所も親の名前も言えるから迷子ではない」と誘拐を主張していた
- 1963年4月1日
- 14時30分に下谷北警察署から警視庁捜査一課に応援要請が入る
- 父親が下谷北警察署に正式な捜索願を出し、知り合いの印刷所に依頼して男児の手配書を印刷
- 1963年4月2日
- 昼過ぎに父親が下請けの電気屋に依頼して買ったテープレコーダーを自宅の電話機に設置
- 17時48分に被害者宅に受電、応対したのは父親の義理の弟(工務店の従業員)
- 「坊主を預かったのは俺だ」「50万揃えておいてください」「新橋駅前の競馬場に週刊誌を持っていて」と金を要求する内容だったが日時の指定はなかった
- 声は東北訛り
- 1963年4月3日
- 19時15分に受電、応対したのは母親の友人の女性
- 彼女は民放に勤めている夫から誘拐犯への呼びかけをするために来宅したものの、受電のタイミングで男児の母親がおらず、捜査陣から「応対は女性がいい」と言われていたため電話口に出た
- 「坊やは明日か明後日に返すので金を用意しておいてくれませんか」「どちらへ持っていったらよろしいんです?」「それは後でね、指定しますからね」
- 19時15分に受電、応対したのは母親の友人の女性
- 1963年4月4日
- 22時18分に受電、応対したのは母親
- 「いろいろ考えたんだけどね、なかなか適当な、ところがないもんでね」「本当にお金はお渡ししますから、ちょっと声だけね、声を、ちょっと出して……」「場所が離れてんだよ」「間違いないですか?おたくさんに」「まつげえねえよ」
- 3分50秒に渡る長さの電話だったが、当時は日本電信電話公社(後のNTT)が法への抵触を恐れ逆探知を拒否していたため架電場所は分からず
- 1963年4月5日
- 警視庁が特別捜査本部を設置し、被害者宅から捜査員の大半が離れて本部が設置された下谷北警察署の二階に移動
- 22時18分に受電、応対したのは父親
- 「新聞紙にくるんで、ぼろっ紙みたいにして」「ボール紙のようにして?」「用意しておいてよ」
- 1963年4月6日
- 1時40分に受電「地下鉄の入谷はやめた、また連絡する」
- 5時35分に再度受電、父親が応対「これからね、持ってきてくれない?」「場所を教えてくれますか?」「上野駅前のね、正面の都電通りのところにね、銀行のとこにある、電話ボックスがあっからね」「はい」「追われている身だから、つまんない了見起こさないようにね」
- 父親の弟(工務店従業員)が店の小型トラックを運転し、助手席に母親を乗せて指定された電話ボックスに向かうも誰もおらず、「いったん引き上げて連絡を待つ」旨の犯人への伝言メモを置いて帰宅
- 23時12分に再度受電、母親が応対
- 「今朝行ったんだよ。塀の陰のほうにいた人があったよ」「もう行ったんです。(自分の子供だという)証拠品があれば必ず(お金を)置きますと書いておきました」「昨日あったんじゃない?」「どこにですか?」「入谷のね」「全然ないんですよ。坊やは元気ですか?」「うん、元気だよ」
- 1963年4月7日
- 1時25分に受電、母親が応対
- 「あのね、いま金持ってきてくれねえか」「えっ?」「お母さん一人でね、よその人は来ちゃダメだからね」「はい」「昭和通りを向かってきますね、突き当りに○○自動車っていうのがあるからね、車が5台ばかりとまっているからね、その前から3台目の車にね」「前から3番目」「後ろの荷台にあの品物(男児の着ていた何か)、乗っかっていっかんね」
- 警察から偽札を用意するよう言われていたものの、男児に危害を加えられることを恐れた母親が本物の50万円を犯人に渡すことについて、詰めていた捜査員の同意を得る
- 助手席に母親が乗車、義理の弟がトラックを運転し、荷台に刑事1名が同乗して身代金受渡し場所へ向けて出発
- 残りの捜査員6名は被害者宅の裏手から受渡し場所に向けて走った
- 受渡し場所に到着した母親が○○自動車に停まっている5台のうち3台目を確認し、男児の靴を発見、その場所に50万円を包んだ風呂敷を置いて帰宅
- 帰宅途中、最初の角を曲がった場所で荷台の刑事が下りて受渡し場所に急行
- 走って受渡し場所に向かっていた捜査員6名のうち1名がバタ屋(くず拾い)に行く手を阻まれ、警察手帳を見せたところ「偽刑事だ」と騒がれ交番に連行されてしまう
- 受渡し場所に到着した刑事たちが3台目の車を見張ったものの一向に犯人が現れない
- 3時ごろに身代金が荷台からなくなっているのを確認したが、念のため7時30分まで見張る
- 結局犯人は現れなかった
- 身代金を置いて最初の刑事が駆けつける間の3分間に犯人に金を奪われたことが発覚
- 特別捜査本部は都内各旅館に「男児を連れて宿泊した東北訛りの男」について一斉手配をかける
- 1963年4月8日
- 公園を中心とする3,000戸に男児の特徴を記載した「お願い書」を配布
- 1963年4月10日
- 午後の記者会見で刑事部長は犯人を取り逃がした事実を公表するも、被害者側の勝手な行動が失敗に至ったニュアンスでの説明をする
- 1963年4月13日
- 警視総監が記者会見を通じて犯人に「罪を憎んで人を憎まず」の諺を引用し「良心から出た勇気」で速やかに名乗り出るよう訴える
- 1963年4月19日
- 夕刊から各紙が事件の顛末を報じる
- 特別捜査本部が事件の公開捜査に踏み切る
- 1963年4月20日
- 下谷北警察署長が被害者宅を訪れ「警察の指示に従わないようじゃ困るじゃないか」と苦言を呈す
- 1963年4月24日
- 警視庁が犯人の声を公開して捜査協力を求める決定を下す
- 1963年4月25日
- テレビ・ラジオにて犯人の声を公開すると、犯人を名指しする連絡が541件も入る
- 18時ごろ、愛宕警察署捜査係を男性が訪れ「五十嵐という男の声と似ている」と言い警察からの質問に戸惑いながらも「五十嵐という男はいない、実は私の兄貴Aなんです」と告げる
- 20時ごろ、ある時計店店主が知り合いの時計屋の職人(A)の声に似ていると川口署に届け出る
- 1963年4月25日
- 都内の時計店店主が知り合いの職人(A)の声に似ていると上野署に届け出るも、その職人が30代であり、警察は40~50代の男を探しているため見解が分かれてしまう
- 1963年5月2日
- 民放ラジオ局社員が行きつけの喫茶店に立ち寄り、そこで犯人の声に似ている男(A)の情報を得る
- 1963年5月17日
- 19時30分ごろ、民放ラジオ局社員がAを尾行、行きつけの居酒屋で直撃取材しその様子をテープレコーダーに録音
- 1963年5月21日
- 朝、ある時計店から時計の代金未払いがあったとしてAが業務上横領の容疑で上野署に連行され逮捕、留置される
- 男児誘拐事件の関係と金の入手経路について取調べられるも、Aは地元の福島県に3月27日~4月3日まで滞在していたアリバイを主張し、金は時計の密輸で儲けたとも主張する
- 依頼を受けた福島県の石川署がアリバイの裏付け捜査を実施、3月27日に帰省の事実は確認できたものの、その後の足取りは不明だが、その後数日間の目撃証言を得る
- 1963年5月27日
- Aの恋人が逮捕容疑となっている時計店に業務上横領の金を渡して示談が成立
- 1963年5月28日
- Aの恋人が上野署で拘留中のAとの面会時に、刑事同席の場で「Aの持ち金で出所不明の20万円について黙っていた」ことを告白するも、Aは金の出所について発言を拒否
- 1963年6月10日
- 勾留期限が切れたため不起訴処分となりAが上野署から釈放される
- 警察は以下の点からAについての捜査を「シロに近いクロ」として打ち切った
- Aは足が不自由なため、身代金奪取現場からの素早い逃走は不可
- Aは足が不自由で歩き方に特徴があるため、現場近くで目撃されていたら誰かしら覚えていたはず
- 捜査陣は犯人が40歳以上だと確信していた
- 地元福島県での薄いアリバイ
- 4月2日に福島県石川町でAの目撃証言があった
- 1963年7月29日
- Aが窃盗目的で住居侵入し現行犯逮捕されるも、その後に容疑否認・実害なしのため起訴猶予になる
- 1963年8月4日
- Aが職務質問され乗っていた自転車が盗品だと発覚し連行されるも微罪のため起訴猶予になる
- 1963年8月15日
- Aが賽銭箱からの窃盗で現行犯逮捕されるも、その後に簡易裁判所から執行猶予の判決を受ける
- 1963年10月4日
- 政府の閣議で「受信者の了解があり、脅迫者を当局が突き止めるための逆探知であれば、通信の秘密を侵すことにはならない」と見解が示された
- これにより逆探知への協力が得られやすくなった
- 1963年10月8日
- 10時30分ごろに受電、事件発生からこれまでの間に毎日数件かかってきたいたずら電話とは異なる雰囲気「子供は俺が預かっている。追って連絡するから100万円用意しておけ」
- その後数回に渡って電話をかけてきたが、夕方に具体的な要求があった「19時32分に国電鶯谷駅から景品東北線南行の先頭車両に乗り込め、100万円は網棚に乗せた森永製菓の黄色い包装紙の上に置いて上野駅で降りろ」
- 男児の父親が言われた通りに動く
- 21時ごろ受電「刑事がついていた、約束を破られたら困る」
- 1963年10月9日
- 8時35分に昨日の男から受電「あと30分でもう一度100万円を作れ、ボスに金を見せなければ子供は返せない」
- 警察が浅草電話局に発信元の逆探知を依頼
- 政府が条件付きで許した後の初めての逆探知
- 通算11回目の電話で会話を引き延ばしているうちに相手の架電場所が大田区仲六郷1丁目の公衆電話ボックスであると判明、蒲田署員が急行し男を逮捕
- 逮捕された男は男児誘拐とは無関係だったことが判明
- 事件発生以降、警察当局や被害者宅には捜査協力の有無も含めたくさんの電話・手紙があった
- いたずら電話や手紙はもちろん、その中には無関係の人の誹謗中傷や、同業者や上司を貶める目的での犯人告発と様々だった
- 被害者宅には新興宗教やその信者、易者、占い師等から「○○をしないと子供は帰ってこない」旨の話と熱心な勧誘
- 実際に捜査陣も動いたのは悪意のある手紙だった
- 「男児は別のところで楽しく暮らしていますよ。犯人は軍人上がりの男ですが、そんなに悪い人じゃないです」「前に手紙を送ったのに探さないんですか。こんなに一所懸命に手紙を書いているのに」
- 1963年11月30日
- 特別捜査本部の幹部たちがAについてシロ/クロの判定をするも保留となる
- 1963年12月5日
- Aが窃盗の容疑で南千住署に連行される
- 1963年12月11日
- Aの身柄が警視庁に移される
- その後、Aについて男児誘拐事件との関係を取調べるも進展なし
- 1963年2月24日
- Aの捜査を打ち切る
- Aは執行猶予取消しとなり前橋刑務所に送られ服役する
- 1964年3月31日
- 事件発生から1年経過、特別捜査本部が洗った容疑者は10,215名、所在不明者327名を除いて全てシロとしていた
- 1964年7月27日
- 有力な容疑者Bの存在が浮上しており、当時33名まで縮小していた特別捜査本部が捜査した結果、アリバイが確認されシロとなる
- 1965年3月11日
- 4名の専従捜査員を残して特別捜査本部が解散
- 専従捜査員はこれまでの容疑者を再点検し何度も浮上したAに注目、再捜査に着手し以下の証言を得る
- 1963年4月3日にAが電話ボックスのありかを訪ねていた
- その日のAの身なりがかなり落ちぶれていた
- 2回目の脅迫電話のタイミングと一致
- 1965年5月13日
- Aについての再捜査を決定、捜査員に平塚八兵衛が参画
- 1965年5月14日
- 平塚八兵衛がAの元恋人に聞き込み、隠していた20万円の他にAが30万円を持っていたことを確認
- 合計50万円となり男児の親から奪った金額と一致
- 平塚八兵衛がAの元恋人に聞き込み、隠していた20万円の他にAが30万円を持っていたことを確認
- 平塚八兵衛が捜査記録からAが30万円を匂わす内容の話をしていた証言を見つける
- 1965年5月17日
- 平塚八兵衛が福島県石川署で再度Aのアリバイ確認を開始する
- Aが石川町にいたという以下の日付のアリバイが崩れる
- 1963年4月2日にAを見たという目撃証言の日付が実は3月28日だった
- 1963年3月31日にAを見たという目撃証言の日付が3月30日だった
- 1965年5月22日
- 民放ラジオ局社員がAのインタビュー録音テープを専従捜査員に聞かせる
- 録音されていた声が公開された脅迫電話の声と酷似
- 民放ラジオ局社員がAのインタビュー録音テープを専従捜査員に聞かせる
- 1965年5月23日
- 警視庁刑事部長が捜査にあたった新旧幹部を集めAについて検討会を開くも、シロを主張する旧幹部に圧倒され結論は持ち越しになる
- 1965年6月4日
- 新旧幹部+新旧捜査陣も集められた2回目の検討会が開かれたものの、強制捜査も別件逮捕もできないと結論づけられる
- 民放ラジオ局のインタビュー録音テープと脅迫電話の録音テープが東京外国語大学物理研究室に持ち込まれて声紋の鑑定を受ける
- 1965年6月23日
- 東京拘置所でAの取調べが任意で始まる
- 取調べ班の中心に平塚八兵衛が据えられる
- 取調べは10日間の期限付き
- 東京拘置所でAの取調べが任意で始まる
- 1965年6月24日
- 東京拘置所でAの取調べが始まるもAは黙秘
- 1965年6月25日
- 東京拘置所でAの取調べが始まるも進展なし
- 1965年6月26日
- 東京外国語大学物理研究室にて鑑定結果が出る
- 脅迫電話の声は30歳前後
- 脅迫電話の声とAの声が同一である可能性が高い(別人だと否定できない)
- 民放ラジオ局のインタビュー録音テープの存在は旧捜査陣の幹部らも認知していたが、当時のAの取調べ結果から脅迫電話の声とは違うと判断して黙殺されていた
- 東京拘置所でAの取調べが始まり30万円の出所について追及すると、「嘘だ」と腕時計20個を横領して売り払った金だと言っていた供述を否定し始める「いま話す覚悟は出来ていない、決心がついたら話す」
- 東京外国語大学物理研究室にて鑑定結果が出る
- 1965年6月29日
- Aに対する長期間の取調べについて、朝日新聞が人権尊重の立場から妥当かどうか疑問がある旨の記事を掲載
- 1965年7月3日
- 刑事部長が捜査陣を集め今後の捜査方針を検討、平塚八兵衛が別件逮捕しての時間稼ぎで自白させるよう進言
- もう一度Aの声を録音しなおし脅迫電話の声と同一か鑑定してもらうため、FBIに依頼することに決定
- 東京拘置所でAの取調べを開始、Aが「4月3日の日に近所であったボヤを消し止めたこともある、電車から見た日暮里の大火みたいになったら大変だった」と発言
- 本来はFBI送付用の雑談録音のはずだったが、平塚八兵衛がここで勝負をかける
- Aが実家帰省時の出来事として主張していたいくつかの出来事が、平塚八兵衛の捜査で嘘だったことを突き付ける
- 3月30日までしか実家にいなかった事実も突き付ける
- 日暮里の大火は4月2日の出来事だが、それを電車から見ていたということは東京にいたはず
- Aが「毎日自殺を考えている」「明日になったら話す」と逃げようとするも平塚八兵衛が「今ここで話せ、関係あるのかないのか!」と迫ると「あの金は男児の母親から奪ったものです」と自供
- 本来はFBI送付用の雑談録音のはずだったが、平塚八兵衛がここで勝負をかける
- 刑事部長が捜査陣を集め今後の捜査方針を検討、平塚八兵衛が別件逮捕しての時間稼ぎで自白させるよう進言
- 1965年7月4日
- 各紙の朝刊が任意捜査の打ち切りを伝える(各社とも予定通り10日の期限で事件の進展がなかったため予測で記事を書いた)
- 東京拘置所にいるAの身柄を専従捜査員が引き取り警視庁に移送し取調べ、弁解録取書を取る
- Aは男児を殺害し、男児の遺体を三ノ輪橋近くの寺のとある墓の唐櫃(かろうと/カロート、墓石の下にある納骨室)に入れたと自供
- しかし遺体が見つからない
- Aの勘違いで別の寺にある墓の唐櫃だったと判明、男児の遺体も発見された
- 専従捜査員が遺族に確認を依頼、遺体は白骨化していたがセーターが男児のものと一致し「うちの子に間違いありません」と父親が答えるう
- 1965年10月20日
- 営利誘拐・殺人・死体遺棄・恐喝の罪で起訴されたAの初公判が行われる
- 雇われていた時計商から解雇され取引先等から迫られていた借金返済に奔走し実家にも帰ったがうまくいかず、黒澤明監督作品「天国と地獄」の予告編を見て身代金目的の誘拐を決意したと述べた
- 3月31日、公園のトイレにいた男児に「おじちゃんの家に行って壊れた水鉄砲を直してあげよう」と誘い、別の公園で黄昏時まで思案した後、南千住の東京スタジアムへ連れて行ったとき「おじさん、おうちに帰ろうよ」と男児に言われたAは遺体発見現場の寺へと男児を連れていき「ここがおじさんのおうちだよ、もうすぐ戸が開くから」と待っている間に男児が寝てしまい、ベルトで絞殺した後、さらに両手で首を絞めたと話した
- 1966年3月30日
- 弁護士に説得されたAが控訴する
- 1966年11月29日
- 控訴が棄却されAの死刑が確定
- 1969年6月
- 千葉県東金市にある短歌の会にAからの入会の手紙が届く
- Aが誘拐犯だと知って会員からは入会を嫌がられたものの、名前を変えて入会を許し、発行している会の誌面にも枠を与えて短歌の投稿を許可
- Aの身柄が東京拘置所から宮城刑務所へ移送される
- 1971年12日23日
- 朝、Aの死刑が執行された(享年39歳)
- Aが短歌の会に送った辞世の句
- 明日の死を前にひたすら打ちつづく 鼓動を指に聴きつつ眠る
- ほめられしことも嬉しく六年の 祈りの甲斐を見たるつひの日
- 世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか門の若き枇杷の木
- 宮城刑務所の看守がAの遺言「真人間になって死んでいきます」を平塚八兵衛に伝えた
- 1972年1月1日
- 平塚八兵衛がAの実家の裏山にある一家の墓を訪れ、その隣にある盛り土の下に眠るAに手を合わせた「落としたのは俺だが裁いたのは俺じゃない」
- 1972年12月27日
- Aが入会した短歌の会でAの一周忌が営まれる